看護師 前田真規子

小学生のとき一人ぼっちで入院。そのとき優しく寄り添ってくれた看護師さんが私の原点

看護師になって11年目。もともとは北広島町で育ちました。看護師になろうと思ったのは小学6年生での入院体験です。1週間ほどの入院でしたが、私は体調が悪いうえに自営業をしていた両親は付き添いができず一人ぼっちだったのでたいへん不安でした。そのとき私を救ってくれたのが看護師さんの存在でした。あるときは私の話を聞いてくれて、またあるときは私の体をやさしくさすってくれ、病室の前を通るたびに顔を見て声を掛けてくれました。その姿に私は「なんてかっこいいのだろう」とあこがれたのです。体をケアしてくれるだけでなく、思いやりをもって接してくれて、それが安らぎとともに体の痛みも和らげてくれる、そんな仕事があるんだと、私はそのとき初めて「職業としての看護師」を意識しました。そして将来は自分も看護師になろうと決めました。だから高校3年の進路を決めるときには迷わず看護の道を選びました。三次看護専門学校に進学し卒業後は廿日市市の総合病院に就職しました。看護学生時代に助産師と脳神経外科(以下、脳外)の看護に興味をもったのでどちらの診療科もある総合病院を選んだのです。そして希望どおり脳外に配属されました。

結婚、出産を経て脳外から内科へ。看護の深さ、広がりを知る

しかし脳外の仕事は新人の私にとってはたいへんハードルの高いものでした。ICUレベルの患者さんを担当することもあり、自分の看護が患者さんの予後や将来に影響を与えるかもしれないことに責任を感じました。それが原因ということはありませんが入職後、約1年で私は結婚、出産の道を選びました。いったん退職し出産後は1年専業主婦を経験しました。まだ看護師としての経験を積めていないと感じていた私は仕事復帰するときにもう一度きちんと勉強しようと総合病院であるこの三次中央病院を選びました。自分が経験したことがある脳外に配属されたものの子育てとの両立はたいへんでした。2年ほど勤務しましたが当時のことは忙しすぎて記憶がないくらいです(笑)。そして2人目の子を妊娠、出産します。育児休暇から戻るとほどなく内科病棟に異動になりました。脳外でも内科疾患を抱えていた患者さんを担当したことはあったのでやっていけそうな気はしていましたが、外科と内科の看護はまた別のものだと知ることになりました。というのも外科は治療による変化が見た目だとか画像で見えやすいですが、内科だと目に見えない体の状態をアセスメントしていく必要があります。そして教科書どおりにいきません。既往歴や日常の数値を見ながら体の中で何が起きているのかを予測していく。脳外とはまた違う看護の一面を知ることができてたいへん勉強になりました。ここで2年働き3人目の妊娠、出産となりました。

「前田さんで良かった」「お母さんってかっこいい」と言ってもらえる看護師に

3度目の職場復帰をして間もなく世の中にはコロナ禍がやってきました。内科でコロナ対応をしたあとに小児科・産婦人外科・血液内科の混合病棟に異動になり、そして現在の所属である患者支援センターに移りました。地域外来、在宅の調整、がんの相談員などもしています。これまでの看護の経験がすべて活かされていると思います。看護ではつねに「先のことを予測する」ことを心掛けています。その人がどうなるかを予測しながら看護計画を立てていく。そして寄り添い声を掛ける。何年も前に退院された患者さんに今でも声を掛けてもらうことがあるんですよ。「あのときの看護師さんが前田さんで良かった」と。いちばん不安だったときに声を掛けたことを覚えてくれているんです。それは私が小学生のときに体験したことと同じです。考えてみればあのときの看護師さんが私を天職に導いてくれたのだと思います。子育てもまだまだたいへんですが、子どもたちにも働く姿を見て「お母さんってかっこいい」と言ってもらえることが私の目標です。