看護師 土井晃之助

「命に携わる仕事がしたい」。高校2年の職場体験で決意し、当院に入職して15年

高校生の時から「将来は人に喜ばれ感謝される仕事がしたい」と思っていました。2年生の時に職場体験があり、看護の実際を見ました。看護師が命にかかわる仕事だと知り、たいへん興味をもちました。2つ上の姉も看護学校に進学していたこともあり、自分も看護師になりたいと思いました。子どもの頃から魚釣りが好きな親に連れられて島根県の海に行っていたので進学先は島根県の看護専門学校を選びました。夏休みには当院で看護補助者のアルバイトをしましたが、そのときに男性看護師の先輩にもお世話になり、気にかけてもらったこともあり「いつかはこの三次中央病院で働きたい」と思いました。新卒では大学病院に入職して整形外科に配属されましたが、翌年には結婚を機に三次市に戻ることにし、こちらの門を叩きました。アルバイトをしていたときの看護部長さん、師長さん、先輩たちも覚えていてくれて「待ってたよ!」と言って下さったのがとても嬉しかったです。それから15年が経ちました。

災害支援で現地で学んだ、変化する状況の中でのとっさの判断と最適な仕事を進める大切さ

こちらでも最初は整形外科に配属され5年ほど経験を積みました。急変対応などをするなか、もっといろんな症例や疾患を見ていきたいとの思いから救急病棟への異動希望を出しました。三次中央病院は広島県の県北エリアではいちばん規模の大きい病院で、災害拠点病院の指定も受けています。私は「災害支援ナース」「DMAT(災害派遣医療チーム)」の資格をとりました。2016年熊本地震や2018年西日本豪雨では現地の熊本市や呉市に派遣されて災害看護の実務を体験しました。資格をとり知識も身に付けていたものの、実際に目の当たりにすることは困難の連続でした。災害の現場では変化するいろんな状況を見ながら、何をすることが求められているのかをとっさに判断をして、最適な業務を並行して進めていくことが大切だと思い知りました。やはり現場で体験しなければわからないことがたくさんありました。

一つひとつの手技、1分1秒を争う判断、命を救うことを意識して日常的に準備していきたい

災害派遣から地元に戻ってあらためて地元、県北エリアでの災害のことを考えるようになりました。三次市は川が多く地形としては盆地ですから、川が氾濫すると街中が浸水するリスクが高いのです。実際に過去にもそういった災害が起きています。災害の現場を経験して思ったことは「日ごろから訓練をしておかねばとっさには動くことができない」ということ。災害はいつ起きるかわからないからこそ、日常からの準備、トレーニングが必要なのです。実際にことが起きれば自分の一つひとつの手技や1分1秒を争う判断が人の命を救うことになります。ここ数年はコロナ禍で活動の制限があり、院内の研修なども中止されていましたがようやく再開がされます。自分が率先して動けるように災害対応カリキュラムを考え、物品の調達や機器のチェックなども定期的に行って病院に貢献したいです。子どもの時に思った「人に感謝される仕事」を今自分が携われているのは看護師ならではと思います。救急病棟では直接「ありがとう」と言われることは少ないですが、重症で運ばれてきた方が回復されて一般病棟に移ったり、退院される姿を見たときはこの仕事を選んでよかったなと思います。